昨年の春の、長崎市長選挙の最中、その時点での現職であり、市長選挙でも優勢が伝えられていた伊藤市長を選挙事務所前で射殺した犯人に長崎地方裁判所で死刑の判決が下った。
私が法学部の学生だった当時は、最高裁の見解に基づき、2人以上殺害しない場合の死刑判決は無かったが、命を数で計るのかなどの批判はあった。
その後、1999年の最高裁の判断で、たとえ被害者が1人でも、重大な情状がある場合には、死刑判決もありうるという見解が出され、今回の判決は、暴力団としての資金獲得という不正な対行政暴力、選挙中の重大犯罪、選挙民の判断の機会を奪ったというような情状により、死刑判決とした。
死刑反対を基本的に志向する私ではあるが、この判決には複雑である。
なぜならば、言論を暴力で封圧しようという暴力団=右翼のテロというのは、非常に重大な罪であり、それを厳罰で防ごうという見解は、ある程度理解できるからだ。
単なる厳罰主義(最高裁の見解はそう)では、冤罪の危険性などが考えられるが、暴力団のいわゆる「鉄砲玉」は、自らの暴力を誇示することにより(よって犯人は冤罪ではありえない)、国民や組織を委縮させて自らの利益を図ろうというものだし、また、借金の肩代わり、生活の保障、暴力団組織内での格上げなどを餌に、本来の犯行の主犯に代わり、実行犯を立てる、日本の闇社会の悪弊もあり、それを防ぐのに、この地裁の判断は、ある意味画期的ともいえる。やくざ社会の悪弊を断ち切り、恐喝や、組織的恫喝の根を断つためのものであろう。
しかし、人道的見地から、「死刑という国家による殺人」を許容することに反対する姿勢を、被告人の立場により変えるのはおかしい。
やはり私はこのような組織暴力団による殺人行為に対しても、社会を防衛するための、「終身刑」により対処し、死刑には反対する。
「終身刑」に対して、「死刑よりも残酷」、「死ぬまで養う税金が無駄」など、反対意見は双方からある。
しかし、やはり死刑には人道上の見地から反対であるとともに、その一方で、従来死刑にされるくらいの犯罪に対する罰として、終身刑は、まだ命があるだけましだろう。税金の無駄であるという意見には、「懲役刑」は、労役を伴い、普通有期刑の受刑者の出所後の資金の一助となっている。それを、終身刑の者の生活費に充当させればよい。
死刑判決への支持が根強い日本において、「法律上存在するから最高刑は死刑」というものに代わる当面の案としては、「終身刑」導入により、死刑という刑罰自体を廃止するのは一つの前向きの方法であろう。
私は、現在の「厳罰化」という司法の流れに反対している。刑罰の厳罰化で犯罪を抑制できるという「応報刑理論」は、長年のヨーロッパでの実績上、必ずしも正しくないそうである。
また、日本で実際には凶悪犯罪は減少の一途をたどっており、死刑を多く適用することで凶悪犯罪を防ぐという意図もおかしい。
厳罰化は、加害者、被害者双方の感情と、その親族の立場を混乱させているだけであり、やはり基本的には「教育刑」で対処するべきだと思う。
ただ、理屈ではそうでも、感情面では、私はこのような暴力団=右翼のテロや体質を、激しく嫌悪しており、感情的には「厳罰に処すべし」ということになりやすい。
そこをどうコントロールするかは私個人の課題であるが、今後、裁判員制度という、無茶な制度が導入されるにあたり、これは克服せねばなるまい。
余談であるが、裁判員制度にも私は反対している。国民の多くもそうである。いっそ国民による意図的サボタージュによる栽培員制度の事実上の停止を招く為に運動したいくらいである。
これは、コイズミが司法分野でのアメリカ法律事務所への市場開放のために意味もなく導入した制度という説が強い(アメリカの対日要求事項の中に、司法分野の開放というのが確かにある。)。
そんなものに国民が翻弄されるのはやめるべきだ。
私が法学部の学生だった当時は、最高裁の見解に基づき、2人以上殺害しない場合の死刑判決は無かったが、命を数で計るのかなどの批判はあった。
その後、1999年の最高裁の判断で、たとえ被害者が1人でも、重大な情状がある場合には、死刑判決もありうるという見解が出され、今回の判決は、暴力団としての資金獲得という不正な対行政暴力、選挙中の重大犯罪、選挙民の判断の機会を奪ったというような情状により、死刑判決とした。
死刑反対を基本的に志向する私ではあるが、この判決には複雑である。
なぜならば、言論を暴力で封圧しようという暴力団=右翼のテロというのは、非常に重大な罪であり、それを厳罰で防ごうという見解は、ある程度理解できるからだ。
単なる厳罰主義(最高裁の見解はそう)では、冤罪の危険性などが考えられるが、暴力団のいわゆる「鉄砲玉」は、自らの暴力を誇示することにより(よって犯人は冤罪ではありえない)、国民や組織を委縮させて自らの利益を図ろうというものだし、また、借金の肩代わり、生活の保障、暴力団組織内での格上げなどを餌に、本来の犯行の主犯に代わり、実行犯を立てる、日本の闇社会の悪弊もあり、それを防ぐのに、この地裁の判断は、ある意味画期的ともいえる。やくざ社会の悪弊を断ち切り、恐喝や、組織的恫喝の根を断つためのものであろう。
しかし、人道的見地から、「死刑という国家による殺人」を許容することに反対する姿勢を、被告人の立場により変えるのはおかしい。
やはり私はこのような組織暴力団による殺人行為に対しても、社会を防衛するための、「終身刑」により対処し、死刑には反対する。
「終身刑」に対して、「死刑よりも残酷」、「死ぬまで養う税金が無駄」など、反対意見は双方からある。
しかし、やはり死刑には人道上の見地から反対であるとともに、その一方で、従来死刑にされるくらいの犯罪に対する罰として、終身刑は、まだ命があるだけましだろう。税金の無駄であるという意見には、「懲役刑」は、労役を伴い、普通有期刑の受刑者の出所後の資金の一助となっている。それを、終身刑の者の生活費に充当させればよい。
死刑判決への支持が根強い日本において、「法律上存在するから最高刑は死刑」というものに代わる当面の案としては、「終身刑」導入により、死刑という刑罰自体を廃止するのは一つの前向きの方法であろう。
私は、現在の「厳罰化」という司法の流れに反対している。刑罰の厳罰化で犯罪を抑制できるという「応報刑理論」は、長年のヨーロッパでの実績上、必ずしも正しくないそうである。
また、日本で実際には凶悪犯罪は減少の一途をたどっており、死刑を多く適用することで凶悪犯罪を防ぐという意図もおかしい。
厳罰化は、加害者、被害者双方の感情と、その親族の立場を混乱させているだけであり、やはり基本的には「教育刑」で対処するべきだと思う。
ただ、理屈ではそうでも、感情面では、私はこのような暴力団=右翼のテロや体質を、激しく嫌悪しており、感情的には「厳罰に処すべし」ということになりやすい。
そこをどうコントロールするかは私個人の課題であるが、今後、裁判員制度という、無茶な制度が導入されるにあたり、これは克服せねばなるまい。
余談であるが、裁判員制度にも私は反対している。国民の多くもそうである。いっそ国民による意図的サボタージュによる栽培員制度の事実上の停止を招く為に運動したいくらいである。
これは、コイズミが司法分野でのアメリカ法律事務所への市場開放のために意味もなく導入した制度という説が強い(アメリカの対日要求事項の中に、司法分野の開放というのが確かにある。)。
そんなものに国民が翻弄されるのはやめるべきだ。




>殺人」を許容することに反対する
この点は賛成です。
しかし、民主主義社会の根幹となる選挙を機能させなくする殺人には、最高刑が課せられて当然と考えます。また、仰るとおり組織的な殺人ということで冤罪の可能性もありませんので、現況では最高刑はやむを得ずとの結論に達します。
事実を述べて命令者を明らかにするならば、罪一等を減じるも可ですが、真相を明らかにしないのでは最高刑はやむを得ないと考えます。個人的な怨恨による単独犯とは誰も信じていないでしょう。
少し脇道にそれますが、下の記事にあるとおり選挙テロがあった際の公正な選挙制度を確立するために選挙法を改正する必要もあるかと思います。
期日前投票に疑問の声 死亡の「伊藤氏」票無効 補充届け出前でも有効 有権者 選管に苦情、注文
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/nshooting/20070420/20070420_0001.shtml
田上富久 78,066票 42.1%
横尾誠 77,113票 41.6%
という票差を考えると、事前投票有権者の2%にあたる7,354人の投票が無効になったことはおかしいです。
結果的には県選出の某代議士の思惑どおりになったことを考えると、確信犯である選挙テロ犯が出所できる可能性があることは、明らかに犯罪抑止の面での実害が大きすぎると思います。
死刑判決はマスコミ各社とも肯定的でしたね。それは「テロに対して暴力で報いる」ということを容認する危険な考え方だと言わざるを得ません。自由刑(懲役など)も暴力ではありますが、死刑とは質が異なり、とくに暴力の特質である威嚇の力がむき出しになっている面を重視すべきだと思います。
さて裁判員制度は、新自由主義の流れと同時期に導入論議があったことは否めませんし、弁護士増員と並行していたことも事実です。しかし、米法律事務所への市場開放を、裁判員制度が実際にもたらすということは、少なくとも直接にはないと思います。そういう論があることは知っていますが、私は「風が吹けば…」的な議論か、あるいはやや陰謀史観的だと見ています。
むしろ、「権威者に決めてもらって、信用して従う」社会から「自分もものを言う」社会に転化する機会になり得るし、また裁判官が市民に理解を得なければ先に進めない場面が多々出てくることは、自白偏重、違法な取り調べ、長期勾留など問題山積の刑事司法に変化をもたらす(短期審理が増えるおそれがあることをのぞけば、少なくとも今より悪くはならない)と考えています。最高裁・法務省検察庁が、ギリギリまで必死に抵抗したことからもそれは言えると思います(導入が決まったいまは、官僚らしく宣伝に努めていますが)。
欧州でも、陪審・参審は民主主義の要素としてとらえられていることは、重く見る必要もあると思います。
>死刑判決はマスコミ各社とも肯定的でしたね。
>それは「テロに対して暴力で報いる」ということを容認する
>危険な考え方だと言わざるを得ません。
『「テロに対して暴力で報いる」ということを容認することは危険な考えだ』というのは、イラクのような公権力が存在しない場所やイラクとアメリカ合衆国の戦争という主権国家同士の報復合戦を戒めることに関して使うことには賛成です。
しかし、日本国という法治国家内でおきた長崎市長殺害事件というテロ事件に関しては当てはまらないかと思います。
なぜならば、前者の場合は、双方が裁かれることを承知している機関(双方が承認する裁判機関)がないため、暴力の連鎖が限りなく続いてしまうという現実があります。一方、法治国家では、ある人物が被害を受けた際に、直接の報復を禁じて、両者の言い分を聞いたうえで裁判所が判断を下し、加害者も被害者もその判断に従うという社会制度によって、報復合戦を収めるという機能を果しております。人を殺す行為を行なった場合、法律で裁かれることを承知のうえで人々は生活することを、法治国家では基本としております。
今回の事件について、私はあくまでも現行法の最高刑を課すべきだと述べております。現行の刑事罰の最高刑が死刑である限り、それを課さないことは、おかしな話です。
刑事罰の法律を決めるのは、国会(立法府)の仕事であり、「本来は民主主義への脅威であり最高刑を課すべきだが、死刑は殺人だから課すのはやめよう」というので、確信犯でテロを起こそうとする勢力に間違ったメッセージを送ってしまうのではないでしょうか。
ちなみに、私は死刑廃止を支持するものであり、死刑と無期懲役(刑法第28条(仮出獄)懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に出獄を許すことができる。)の差が激しい中で、終身刑の創設か刑法第28条の改正をおこなってこず、行政官庁の大きすぎる仮出獄権限の保持を許してきた国会議員の怠慢が一番の問題だと思っております。
また別の点からも今回の犯人に対して民主主義制度と暴力による言論の封殺がない社会を守りたい一国民として妥協できない点があります。長崎市長殺害の捜査に関しては、本気で犯人の黒幕を追及しようとしていない動きがあります。このあたりの司法行政の一部の怠慢と事なかれ主義を考えると、犯人が真相を話さないのならば、私は最高刑を課すべきだと思います。暴力を肯定する勢力に間違ったメッセージを送ることを避けることが一番肝要かと思います。
もちろん、最高刑が終身刑であればそれが一番だと思いますが。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/nshooting/20070606/20070606_0001.shtml
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/nshooting/20070420/20070420_005.shtml
裁判所や検察の運用上の権限で死刑をやめさせるのは、歪んだ国家を作り出すのではないでしょうか?
立法で死刑制度を廃止するのが、民主主義国家での基本であり、遠回りかも知れませんが進む道ではないかと私は思います。
栽培員制度の導入に関しては、私もほぼ同じご意見です。言葉も違う日本の刑事裁判でアメリカの弁護士が活躍できるとはアメリカ人も考えてないと思います。英語が通じるインドや、人口が桁外く今後成長もする中国への進出なら、まだ考えられますが。また、アメリカが開放を要求したのは民事事件で刑事事件は要求しておりません。