今更ここで概要を述べる必要はないでしょう。昨日の夕刊でもニュースでも大々的に取り上げられていましたし。
さて、私の基本的な姿勢は、原則、死刑廃止論にくみするものですが、一方で、完全終身刑(労役付き)ができて、「社会防衛論」から、凶悪犯罪者を社会から隔離するという「隔離刑」制度を前提とした死刑廃止を唱えるものです。ですから、現行法で死刑が刑罰として存在する以上、その範囲で判決を下した裁判官を非難するという意見には賛成できません。
今回も判断基準となったのは、永山事件という、19歳の少年が複数の人を殺害した件で最高裁で死刑が確定した事件を基準に、犯行当時、18歳1か月の少年を死刑にするかどうかという点でした。
しかし、光市事件の裁判は、最高裁で「量刑不十分」として差し戻されたもので、そこで、大法廷判決では無いにしても、すでに最高裁の意思は明確にされていたわけで、広島高裁では、よほど驚天動地な物的証拠で被告の犯罪を否定するものが出てこない限り、死刑以外の判決は下しえなかったものなのです。
ですから、裁判官を責めるのは正しくないと思います。
18歳1か月という犯行当時の年齢の問題も、では2か月過ぎなら?3か月過ぎなら?というあいまいさを拡大するだけで、法で定まっている以上、それは死刑回避の理由にはなりえません。逆に、18歳に数か月足りないというだけで、少年法で保護された者もいたはずです。「何か月」というのは心情的なもので、法的な判断根拠にはなりません。
ただ、今回の判決を見て、少し奇異に思ったのは、弁護側が申し立てた、被告の生育環境で虐待などの悲惨な状況にあったということを、情状酌量には不十分とした上に、過去6年半にわたって犯行事実を認めていたのに、差し戻し審でそれまでの発言を翻し、本人の陳述以外には何の物的証拠がないことを理由に、「発言を翻したのは、反省していない証拠」として、死刑にする理由とした点です。
つまり差し戻し審での少年側の主張がかえって、死刑にせざるを得ない結果を招いた、という論法を使った点です。
「情状」、「裁判官の心証形成」というのは、裁判上の重要な視点ですが、この判決では、被告の事件当時の犯罪自体だけでなく、逮捕、訴追後の法廷の内外での言動をも量刑の基準としたのは、行き過ぎのような気がします。昨今、新自由主義による貧困の増大で、若年家庭におけるDVの問題がクローズアップされている中、少年時に虐待を受けていたという情状を認めないというのでは、今後の裁判への影響が懸念されます。
そうはいっても、上記のとおり、裁判の慣行から、最高裁で量刑不十分として差し戻された事案で、完全に今までの事実認定を覆すような証拠が出てこない限り、今回の場合、死刑以外の選択肢を高裁の判事は持たなかったのは事実です。「法廷の独立」は確かにありますが、仮に今回も無期判決にしても、結局検察が上告し、最高裁で死刑判決が確定する結果になったでしょう。
ただ、私がこの判決のニュースを聞いて感じたことは、この被告の弁護に集まった弁護士たちへの敬意でした。確かにこの被告は、凶悪な犯罪者でしたでしょう。弁護側としては、判決で荒唐無稽と評されるような被告の発言を基に争わざるを得ず、そこに弁護団側の苦肉の策としての誘導があったかもしれません。
しかし、弁護団は、この被告の犯罪を免罪しようとしたのではなく、「死刑制度」と言う物の下における、「国家による殺人」を否定すべく努力したのでありました。
橋下のような、サラ金の取り立て屋をやっていた倫理観の無い弁護士の懲戒請求の煽りなど、国民の非難にもさらされながら、それに耐えて頑張った弁護団は、胸を張っても良いと私は思います。
マスコミは被害者遺族の本村氏のことばかり取り上げますが、被告にも家族や友人もいたでしょう。そちらの心情についての報道は全くありませんでした。それは公平を欠く報道姿勢だったと思います。
今後、裁判員制度が導入されるにあたって、マスコミの煽りによって、厳罰化が進むような事態は憂慮せざるをえません。マスコミは責任を取りませんし、本来、国権の一部である裁判所でもないわけで、それが煽りを入れたからと言って、量刑や判断が左右される事態になってはいけないと思うのです。
その意味でこそ、今回の被告の弁護団は立派であり、本村さんだけに注目する報道や、最高裁の差し戻し審で最高裁の見解以外の判決がでることはまずないことを知った上で煽りをした橋下大阪府知事のような、ポピュリストによって、今後裁判が壟断されることの無いように望むばかりです。
なお、私が学生時代に、自分たちで行った、死刑制度についての世論調査で、88%の人が死刑制度を認めているという数字からも、日本では世界的な死刑廃止の動きとは逆のベクトルの世論があることは間違いないでしょう。
そこには、日本の江戸時代の「仇討」の思想があり、毎年12月になると忠臣蔵もののテレビ番組が放送されたり、某長寿時代劇でも勧善懲悪、仇討推奨の内容が毎週(再放送を入れると毎日)垂れ流されている状況では、日本人の、「応報刑」を求める思考に変化は起きないと思います。
しかし、それでもやはり、死刑廃止にむけて活動をし、できれば議員が率先して刑法改正に動き、死刑制度を廃止してくれることを望まざるをえません。
わかりにくいと思うので、繰り返しますと、私は死刑廃止に賛成です。ただ、そのためには刑法改正が必要で、現行刑法に死刑がある以上、それをもって判断した裁判官を批判することはできない、という立場です。
正直、法律を学んだものとしては、非常に複雑な思いでこの裁判を見つめていました。現行法での死刑判決は、最高裁から差し戻された時点でほぼ確定しており、その後の被告側の、確かに荒唐無稽な、しかも立証ができない本人の陳述のみによる弁護では、死刑判決は回避しえなかったことは理屈では分かっています。しかし、死刑廃止を望む者の一人として、それでも高裁は情状を斟酌してはもらえなかったのかと、または、意見として、死刑制度への疑問を提起するなどしてもらえなかったか?などと淡い期待を持ってもいたのです。
その意味では、厳しい判決でしたし、今後の厳罰化、応報刑の強化の方向、マスコミによる裁判外での断罪などが行われることへの危惧は隠せません。
裁判官を責める気はないですが、残念な判決でした。
